「救いは悲しみの中に」

聖書:ルカによる福音書2章22節~38節

水海道教会では、今日の礼拝は長寿祝福礼拝として捧げています。

マリアとヨセフの貧しく若い夫婦が、その子イエスを神に捧げるために神殿にやって来たとき、その母の腕に抱かれている幼な子がメシアだとは誰も気づきませんでした。それは、どこにでもいる貧しい家庭に生まれた男の子にしか見えなかったのです。ですから、マリアの腕に抱かれたイエスに気を留めた人は誰もいませんでした。

しかし、そこに一人だけ、このイエスに目を留め、この赤ん坊こそ、自分が待ち望んでいたメシアだと気づいた人がいたのです。それがシメオンと言う人です。「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」と記されています。

そのシメオンが神殿の境内で、貧しい両親に抱かれていたイエス様に目を留めたのです。そして、この幼子を見た時、この子こそ待ち続けてきたメシアだと分かったのでしょう。この時、シメオンはどれほどの喜びで満たされたでしょうか?

彼はマリアとヨセフに、その子を抱かせてもらえませんかと声を掛けたのでありましょう。そして、彼を抱き、神を讃えて言いました。29節~32節をごらんください。「・・・」。

ここでシメオンは、あなたは約束通りメシアをイスラエルに送ってくださいました。それを見届けた私は、もういつ死んでも良いです。もう思い残すことはありません。…と謳っているのでしょう。このシメオンは恐らく老人であったと思います。高齢の方々にとって、死というのは差し迫った現実です。

さて、老シメオンはこの幼子イエスを見た時、死というものはもはや怖くなくなったのでありましょう。「安からに去らせてくださいます」と謳っているとおり、彼は安心して死んでゆけると言ったのです。

このことは、私たちキリスト者に与えられている大きな慰めです。このシメオンの腕に抱かれている幼子は、やがて十字架に架けられて殺されてしまいます。十字架刑は当時の最も残酷な処刑方法でした。

イエス様は罪の呪いである死を御自分の身に引き受けて下さいました。そして、3日目に神によって甦らされました。そのことの故に、私たちにとって罪の呪いとしての死は、もはや打ち破られたのです。そして、死は終わりではなく、新しい命の始めとなったのです。

さて、このように歌ったシメオンは、幼子の両親を祝福して、母親のマリアに言いました。34節-35節「・・・・・・・・・・・・・・・・」。

ここでシメオンは、この幼な子が神につく者と背く者とを区別する「しるし」となるよう定められていると言います。つまり、イスラエルの多くの人がこの「しるし」に躓き、倒れたり、また立ち上がったりするというのです。

躓き倒れることなしに、立ち上がることはできません。確かに、やがて多くのイスラエルの人々はイエス様の十字架に躓くのです。呪われた十字架刑によって惨殺されてゆく人のことをメシアなどとは信じられないのです。

イスラエルの民が求めていたのは、力強いメシア、軍事的にも、政治的にもリーダーシップを発揮して、イスラエルをローマ帝国の支配から解放してくれるようなカリスマ的なリーダーだったのです。

しかし、イエス様の姿はそれとは全く違ったのであります。だから、多くの人は躓くのです。けれども、イエス様はそのことによって、救いを成し遂げて下さったのです。先ほども言いましたように、イエス様は罪の呪いである死を御自分の身に引き受け、私たちを罪と死から解放してくださったのです。そのしるしとして復活なされたのです。

シメオンはそのことを預言しているのです。しかし、そこでマリアに対しては、個人的にこう語るのです。「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」。

これはいったいどういう意味でしょうか?それは、自分の愛する息子が十字架刑と言う惨い方法で殺されるのを見なければならないということです。

では、今日の箇所はいったい、私たちに何を伝えようとしているのでしょうか?それは、「救いは悲しみの中にある」ということであります。

この幼子を生んだ母マリヤにとって、この神殿詣では喜びの時であったことでしょう。ベツレヘムへの長旅の中で、ようやくやっとのことで、家畜小屋で生んだ子どもです。よくもまあ、あのような厳しい環境の中で無事に生まれてくれた・・・という思いと、それに対する感謝の思いで、神殿に、つまり神のもとにやってきたのです。

そこでシメオンと言う老人に会い、この子はイスラエルを救う子だと告げられましたが、その喜びを告げる言葉の中に、マリアにとって悲しみの言葉が含まれていたのです。「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と。

つまり、これは「救いは悲しみの中にある」ということです。このあとアンナという女預言者が登場します。彼女は非常に年をとっていたと記されています。また、若いとき嫁いで七年間夫と共に暮らしたが、死別し、現在84歳になるまでずっと一人で生きてきたということが記されています。彼女もまた悲しみの人でした。しかし、このアンナも神殿でイエス様に会い、この幼子こそイスラエルに救いをもたらす子だと確信し、喜びにあふれてそのことを人々に伝えたのであります。

私たちは、この人生において幾多の悲しみを経験します。年を重ねれば重ねるほど、悲しみを経験することも多くなるかもしれません。しかし、聖書は「救いは悲しみに中にある」と語りかけるのです。私たちが救われるというのは、この人生から悲しみがなくなり、喜びばかりの人生になることを意味するのではありません。そうではなく、悲しみの中にこそ救いがあることを知るようになる、ということなのではないでしょうか。

シメオンはイエス様を見て「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます」と叫びました。死とは本来、悲しいものであります。しかし、シメオンはその悲しみの中に救いがあることを見出して、自分は安らかに死んでゆけると語ったのであります。

なぜなら、神様がイエス様を通して成し遂げて下さった救いの御業というのは、まさに十字架という悲しみを経て、復活の喜びへと至るものであったからです。それは、救いは悲しみの中にあることを私たちに告げているのです。

それ故、私たちは悲しみを排除するのではなく、悲しみを抱きしめて生きてゆくのです。長寿の方々は、悲しみをもまた多く抱きしめておられるかもしれません。しかし、まさにそのことのゆえに、「幸いなるかな」という神様の祝福を受けているのです。「今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる」。(ルカ福音書6章21節)