「慰めはどこに?」 手束信吾牧師
聖書:エレミヤ書28章1節~17節 ヨハネの手紙Ⅰ 5章10~21節
導入:今日の旧約の箇所はエレミヤ書28章であります。ここに描かれているのは、紀元前594年のことです。場所はエルサレム神殿で、預言者ハナンヤとエレミヤの対決の場面と言ってよいでしょう。
既に紀元前597年に第一回バビロン捕囚が行われていました。そういう状況の中で、預言者エレミヤは、イスラエルの民の耳に痛い預言を語っていました。そして、捕囚の期間は70年続くとさえ預言していたのです。そう、エレミヤは安易な慰めを民に語ることはしなかったのであります。それに対して預言者ハナンヤは、一時的な気休めや慰めともとれる預言を語りました。それはイスラエルの民にとって、耳ざわりの良い言葉でありました。これは、いつの時代でも、神の言葉を伝える者が陥りやすい誘惑であります。
その偽りの預言者ハナンヤに対してエレミヤは言います。15節~16節をご覧ください。「・・・・・・・」。そのエレミヤの言葉通り、ハナンヤは死んでしまったのであります。神の言葉を取り次ぐのではなく、人の気に入るような言葉を語ろうとする時、その人は偽預言者と呼ばれるのであります。けれども、しばしば偽預言者の方が、真の預言者よりも人気を集めるのであります。
さて、今日の新約の箇所は、ヨハネの手紙Ⅰ 5章10節以下であります。ヨハネの手紙は、ヨハネ共同体とも言うべき、教会のグループに対して、その共同体の指導者である人物が書き送った手紙であります。教会と言いましても、当時の教会はいわゆる「家の教会」であります。ヨハネ共同体に属する家の教会がいくつもあったわけであります。
当時、ヨハネ共同体に属する教会がどのような状況に置かれていたかと言いますと、外からはローマ帝国の迫害を受け、内側では、いわゆる偽預言者と呼ばれる人たちによって、またグノーシスの台頭によって揺さぶられ、分裂をも経験し、幾重にも傷を負っているという状況でした。その傷ついた共同体を癒し、再構築するために書かれたのが、この手紙なのであります。
そして、今日の箇所は、ヨハネの手紙Ⅰの結びに当たります。この手紙は次のような言葉で結ばれます。21節「子たちよ、偶像を避けなさい。」この21節は「子たちよ、偶像から身を護りなさい」とも訳せます。「子たちよ」というのは当然、共同体すなわち教会のメンバー、キリスト者のことであります。
普通、教会共同体において、神ならぬ存在を神としようなどとは考えません。しかし、そこにサタンの本質と人の弱さがあるのです。この手紙の著者はそのことをよく知っていたのです。自分たちの思いとは裏腹に神でないものを神としてしまう共同体とそこに属する人の脆さ、弱さの危険性を警告するのです。先の大戦で、日本基督教団はまさに、そのような脆さ弱さを露呈してしまったのであります。
さて、18節、19節にそれぞれ「悪い者」という言葉が出てまいりますが、これは「サタン」のことであります。サタンとはまさに神ならぬ存在であるにもかかわらず、自分を神のようにあがめることを求める存在です。
その「サタン」本質とは、いったい何なのでしょうか?一般的に、サタン、悪魔というと昔の人が考えた存在、中世の得体のしれない存在のことを考え易いでしょう。そして、科学が発達した今の時代に、サタンが生きて働いているという実感を持つ人は少ないでしょう。そして、それは聖書を通して悪魔、サタンという言葉に触れる機会の多い私たちキリスト者でも同じではないでしょうか?キリスト者でも、日常生活の中でサタンを現実のものとして捉えている人は少ないでしょう。
しかし、自らの存在をそのように思わせるところにサタンのサタンたる所以があるのです。子どもたちが好きな歌で「おばけなんてないさ」というのがあります。こういう歌詞です。
おばけなんて ないさ おばけなんて うそさ
ねぼけたひとが みまちがえたのさ
だけどちょっと だけどちょっと ぼくだって こわいな
おばけなんて ないさ おばけなんて うそさ
サタンなんて存在しない。サタンの働きなどないと思わせる…それこそがサタンの本質なのです。確かにサタンは昔の人が考えたような姿形をして存在するのではないでしょう。それでは、どのような姿形をしてサタンは今、存在するのでしょうか?
ある牧師はこのように言っています。端的に言えば、わたしは人(キリスト者)を、そして共同体(教会)を「無関心・無気力・無責任・無感動…」な存在にし、そうした空気・雰囲気を作り出していく、それこそがサタンであり、そこにサタンの働きがあると考えている。共同体とそこに属する者に危機を危機として捉えさせない、思わせない、そこにサタンの真骨頂があると考えている。
なるほどと思います。今、そこに危機があるのに、それを危機として捉えさせない。「大丈夫、何とかなるさ」、「きっと誰かがやってくれるさ」と思わせる。あるいは逆に、「まあ仕方がない。」「流れにまかせるしかない。」「どうせ無理だろう」…と思わせる。それがサタンのやり方だというのであります。
外からはローマ帝国の迫害、内からは偽預言者やグノーシスという新しい魅力的な思潮によって、共同体が崩壊させられそうになっている危機が、ヨハネ共同体にはありました。
しかし、共同体のメンバーの中には、その危機を危機と捉えることができず、「大丈夫、何とかなるさ」「誰かがきっとやってくれるさ」という安易な楽観的態度をとる者がいれば、一方で、「まあ仕方がないさ」「流れにまかせるしかない」「どうせ無理だろう」という態度をとる者もいたのでありましょう。そのような者たちに向けて、この手紙に著者はこう語り掛けるのです。13節をご覧ください。「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」
この手紙を書き送ったのは、「あなたがたが永遠の命を既に得ていることを思い起こさせるためだ」と著者は言うのであります。「永遠の命」が与えられているということ、それがどれほど大きな恵みであるのか、あなたたちはまだ、それを知らないのだ。…と語るのです。
そして、こう言います。14節~15節「・・・・・・・・・・・・」。
これは、「永遠の命が与えられている者は、決して気休めの楽観論に立ったり、なげやりな態度に陥ったりせず、決してあきらめずに神に祈るのだ」と言っているのでしょう。しかも、「死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために、粘り強く祈りなさい」と言っているのであります。
この「死に至らない罪」が具体的に何を指すのかは、はっきりしません。ただ、この「死」というのは、物理的な死、生物学的な死のことと言うよりは、あくまで「霊的な死」のことを言っていると考えらえます。
つまり、キリストを信じ、教会共同体に生きるようになっても、罪を犯してしまうことがある。その罪がどんな罪なのかはわかりませんが、その本人がなおも悔い改めて、キリストの赦しを求めている場合には、それは「死に至らない罪」ということになるのでしょう。キリストに許せない罪はないのであります。ですから、その人のために神に願う時、神はその人に命をお与えになると言われているのです。
一方「死に至る罪」とは何でしょう?それは、イエス・キリストの救いを信じないことであり、キリストによって与えられる「赦し」と「永遠の命」を拒否することにほかなりません。これは、未信者の人に言われている言葉ではなく、あくまでキリストを信じ、一度は教会共同体に属した人が、イエス・キリストの救いをもはや信じず、キリストによって与えられる赦しと永遠の命を拒否した場合のことが言われているのです。
このようなことが言われる背景には、教会共同体の中に、グノーシスの考えが入り込み、そのような者たちが出てきた事実があるのではないかと推測されます。残念ながらここで、グノーシスについて触れる暇はありませんが、2世紀の教会にとってグノーシスが大きな脅威であったことは間違いありません。
そのような危機の中にある教会共同体に、著者は語り掛けるのです。20節「わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。」
つまり、永遠の命とはイエス・キリストのことであり、私たちはイエス・キリストを得ていると同時に、イエス・キリストの内にいるのだということを言っているのです。
皆さんは、ハイデルベルク信仰問答というのを聞いたことがあるでしょうか?キリストを信じて生きていくということはどういうことなのかを教える一問一答形式の問答集であります。初版は1536年ですので、約500年前のものですが、現在に至るまで教会で用いられている信仰教育の教材であります。ハイデルベルク信仰問答のいちばん初めの問いはこうです。
問一 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。
答え わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。
13節に「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」とありました。「永遠の命を得ている」とは、まさにこのハイデルベルク信仰問答が言う、「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであること。」なのではないでしょうか?
私たちが生きるにも死ぬにも、体も魂もキリストのものとされているとするならば、私たちがこの人生で、どんな失敗をしようと、どんな罪を犯してしまったとしても、そして、どんな後悔をしようと、どんな傷を負おうとも、それは、「死に至らない罪」であって、キリストは「それでもあなたはわたしのものだ」と言ってくださる。だから、私たちは恐れる必要はないのだ。…たとえ迫害に遭おうと、たとえ共同体が分裂しようと、これまで共に歩んだ者が去っていったとしても、それでもなお私たちはキリストのものなのだ。そこに私たちの慰めがあるのだ。そのことをあなたがたに知ってほしいと、この手紙の著者は語っているのではないでしょうか?
さて、私たちはどうでしょう。私たちの教会はどうでしょう。わたしたちが、そして私たちの教会が、私たち自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしたちの真実な救い主イエス・キリストのものであることを心に留めたいと思います。そして、ここにこそ、わたしたちの慰めがあることを覚えて、歩んでゆきたいと思います。
<祈り>天の父なる神様、御名を賛美します。私たちは今、み言葉を通して、私たちに永遠の命が与えられているということ、そして、そのことがどれほど大きな慰めであり、私たちの力となるのかを知りました。私たち一人一人の人生の歩みにおいて、また教会の共同体としての歩みにおいても、様々な苦労や困難があります。けれども、私たちは既に、生きるにも死ぬにも、体も魂も、私たちの真実な救い主イエス・キリストのものとされていることを感謝します。このことをいつも思い起こしつつ、勇気をもって歩み続けますよう、慰め主なる聖霊の助けをお与えください。この祈りをイエス様のお名前を通して御前にお捧げいたします。アーメン。