説教要旨 8月9日 「つぶやいていませんか?」
聖書:ヨハネによる福音書6章41節-59節
今日の聖書箇所においてユダヤ人たちは、あれは我々が昔からよく知っているマリヤとヨセフの息子イエスではないか。我々と同じ人間に過ぎない「あいつ」がどうして「わたしは天から降ってきたパンである」などと言うことができるのか、それは神を冒涜する言葉だとつぶやきます。それに対してイエス様は「つぶやき合うのはやめなさい」と言われました。
ところで、この「つぶやき」というのは、どういう所から生じるのでしょうか。それは、物事が自分の思いの通りにならないときなどに起こってくるのではないでしょうか。
ここでのユダヤ人たちのつぶやきは、あのエジプトを脱出したイスラエル一行が荒れ野でつぶやいた出来事を連想させないでしょうか。イスラエルの民は、自分たちが神によってエジプトの圧制下から救い出されたことを忘れて、自分たちの思い描いた通りにいかないと言っては、つぶやきます。別の言い方をすれば、それは神様を自分たちの思い通りにしようとしているのです。
しかし、神はそのような不遜なイスラエルをなおも見放さず、彼らの訴えを聞いて、彼らに食物を与えて下さるのです。にもかかわらず、天からのマナを与えられたイスラエルの民は、感謝するどころか、その後もたびたびつぶやき、不平不満を言うのです。
イエス様は49節で「あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。」と言われました。そう。つぶやき、不平不満というのは、私たちを内側から崩壊させるものなのです。
私たちは、この世に生きる中で、自分の思い通りにならないことをたくさん経験します。しかし、思い通りに行かないことの多いこの世にあっても、この天から降ったパン、すなわちイエスの御言葉を食べるならば、私たちは命に溢れていられる。つぶやきや不平不満に自分の心を支配されてしまうことはないのです。
ニューヨーク大学のリハビリテーション研究所の壁に作者不明の「人生の祝福」という詩があります。
大事をなそうとして 力を与えて欲しいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと 弱さを授かった
より偉大なことができるようにと 健康を求めたのに
より良きことができるようにと 病弱を与えられた
幸せになろうとして 富を求めたのに
賢明であるようにと 貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようとして 権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと 弱さを授かった
人生を享楽しようと あらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと 生命を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが 願いはすべて聞き届けられた
神の意の添わぬ者であるにもかかわらず
心の中に言い表せない祈りは すべてかなえられた
私はあらゆる人生の中で もっとも祝福されたのだ
私たちのこの世の命においては、確かに自分の思い通りに行かないことがたくさんあります。しかし、この世において命のパンである、主の御言葉を食べるとき、つまり、御言葉を聞き、口ずさむとき、この詩に歌われているように、思い通りにならないことの多い人生でも、不平不満やつぶやきで満たされた人生ではなく、祝福された人生としてそれを受け取り直すことができるのです。