「誘惑に抗って」 手束信吾 牧師

聖書:マタイによる福音書4章1節~11節

8月の第一主日は、日本基督教団では「平和聖日」となっています。戦後75年、私たち日本人は、「平和」とはいつもそこにあるものだと思ってきました。しかし、「平和」と言うのは決して当たり前のことではありません。これは私たちが自覚的に守って行かなければならないものであることをこの朝、ともに覚えたいと思います。

この朝与えられている聖書の箇所は、マタイによる福音書4章1節いかであります。イエス様が荒野でサタンから三つの誘惑を受ける場面です。この場面から皆さんと共に平和を守るために必要なことは何かを考えて行きたいと思います。

ヘンリ・ナーウェンというカトリックの司祭は、このサタンの三つの誘惑を次のように解釈しました。一つ目の「石がパンになるように…」という誘惑は「自分の能力を示すこと」への誘惑であると言います。二つ目の「神殿の屋根から飛び降りたらどうだ…」という誘惑は「人の歓心を買うこと」への誘惑であると言います。そして三つ目の「ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」という誘惑は、「権力を求めること」への誘惑であると言います。

「自分の能力を示すこと」、「人の歓心を買うこと」、「権力を求めること」、これら三つの誘惑は、私たちと決して無関係ではありません。現代社会を生きる私たちもまた常にこれらの誘惑に晒されているのではないでしょうか。「あなたは自分がひとかどの人物であることを証明しなさい。」「自分が愛されるに値する人間であることを示しなさい」「人に使われるよりも、人を使う側の人間になりなさい。」 そのような声がイエスの時代、いやそのもっと前の時代から、この現代に至るまで、絶えることなく、私たちに囁きかけているのではないでしょうか。私たちはそのような誘惑に晒されているのです。

ナーウェンはこれらの誘惑を退ける処方箋として私たちに、「能力を示すことから、祈りへ」「人気を求めることから、仕えることへ」「導くことから導かれることへ」という生き方を指し示します。そして、これらの生き方は、まさにイエス様ご自身が十字架への道行きで示されたものであります。

戦後私たちの国はずっとこれらの誘惑に勝てずにきたのかもしれません。そのことがはっきり示されたのが、あの福島の原発事故であったのではないでしょうか?原子力発電所をこの小さな島国に次々と建設し続けたことは、まさに「能力を示し」「人の歓心を買い」「力を求める」誘惑に負け続けたことであったのではないでしょうか。私たちが今後も、この三つの誘惑に誘われるまま、突き進んで行くその先に待ち受けているものはいったい何でしょうか?

イエス様はこのサタンの三つの誘惑をどれも聖書の言葉でもって退けられました。そして、その後の山上の説教において「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」と語られました。私たちキリスト者もまた、この三つの誘惑に負けて来たのではないかと自らを顧みつつ、今一度、イエス様に倣い聖書の言葉に聴き従う思いを新たにして、これらの誘惑を退ける生き方をそれぞれの置かれた場所で示し、平和を実現する者となりたいと思います。