「恐れることはない」 手束信吾牧師
聖書:イザヤ書43章1節~7節 ヨハネによる福音書6章16節~21節
本日の旧約の箇所は、いわゆる第二イザヤと呼ばれる預言者の言葉が記されています。第二イザヤはバビロン捕囚期のイスラエルの民に神の言葉を語った預言者です。国が滅び、略奪され、焼き払われ、民は散り散りにされ、異教の地バビロニアでは嘲られ、イスラエルが自らの誇りと希望を失っていた時に、第二イザヤは神の言葉を捕囚の民イスラエルに告げるのです。
ここで、神はイスラエルの民にまず「恐れるな」と呼びかけます。1節「ヤコブよ、あなたを創造された主は イスラエルよ、あなたを造られた主は 今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの」。5節でも再び「恐れるな」と命じられています。「恐れるな、わたしはあなたと共にいる。」
ある牧師が言うには、聖書の中で、神から一番多く命じられていることは、この「恐れるな」ということだそうです。「愛しなさい」「赦しなさい」「仕えなさい」という命令よりも「恐れるな」という命令の方が多いのだそうです。今日の福音書の箇所、ヨハネによる福音書6章20節でもイエス様はこう言っておられます。「わたしだ。恐れることはない。」
聖書の中で神様から一番多く命じられていることが「恐れるな」なのかどうかは、本当のところ分かりませんが、旧・新約を通して、「恐れるな」と何度も繰り返して呼びかけられていることは確かであります。つまり、それだけ人間が「恐れやすい」存在であるということを神様はご存じだということでしょう。「恐れ」が人間を萎縮させ、イキイキと生きることが出来ないようにさせる力を持っていることを神様はご存じなので、「恐れるな」と命じられるのでしょう。
私たちは人生の荒波にもまれる中で、「神様が共におられること」を忘れて、恐れに囚われ、身動きがとれなくなってしまうことがあるかも知れません。弟子達が嵐の湖の上で、舟を漕ぎあぐねて、コントロールを失いかけていたときに、イエス様は彼らの方に近づいて来られました。しかし、弟子達はそれがイエス様だとは分からずに、ますます恐れたのであります。すると、そこでイエス様の声がしたのです。「わたしだ。恐れることはない。」
私たちの人生は、しばしば航海にたとえられます。そして、航海には嵐がつきものであります。私たちの人生の航海において必ず嵐の時を経験します。その時、私たちは恐れに取り憑かれ、主を見失い、更に恐れが深まるということがあります。けれども、私たちが主を見失っても、主は私たちを決して見失われません。そして、主の方から私たちに近づき「わたしだ。恐れることはない。」と呼びかけていてくださるのです。私たちはこの主のみ言葉によって、人生の嵐の中でも生きる勇気が与えられるのです。