「驚くべき希望」 手束信吾牧師

聖書:ヨハネによる福音書5章19節~30節 使徒言行録24章10節~21節

今日の箇所において、イエス様もパウロも理不尽としか言いようのない出来事に巻き込まれています。しかし、そのような人の命を脅かす暴力、あるいは支配者・権力者による抑圧に屈することなく、両者とも死者の復活の希望を語るのです。しかも善人も悪人も、正しい者も正しくない者も復活すると語るのです。

イエス様ははっきりと「善を行った者は、復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るであろう」と言われました。つまり、すべての者は復活させられたうえで、不条理な死を死なれ、復活させられたキリストの前に立たされるということであります。パウロはこの出来事を彼にとっての希望だというのです。

モルトマンという神学者はこういうことを言っています。「キリストがすべての人において、またすべてのものを貫いていかれる義は、善や悪について決定する義ではなく、また、善人が報いられ悪人どもは罰せられる、応報的義でもありません。それは、犠牲者たちに権利を創造し、犯人たちを正す創造的な義です。」

どういうことかと言うと、不条理な死を遂げた犠牲者が、同じく不条理な死を死なれ、復活させられたキリストの前に立たせられるとき、不条理な死によって奪われたその人の権利をキリストは新しく創造してくださり、その人は新しい復活の命を生き始めるということです。

一方、悪を行った者が、復活のキリストの前に立たされるとき、彼は一人の拷問を受けたお方と対面させられることになります。これが彼にとっての裁きです。この悪を行った者の罪は償われなければなりません。しかし、人が人の命を償うことは決してできません。

十字架で拷問されて死なれたキリストは、犠牲者たちと連帯するだけでなく、犯罪行為者たちのために償いをする方となられました。

ですから、悪を行う者たちが復活のキリストの前に立つとき、彼は一人の拷問を受けたお方と対面しつつ、同時に「彼の罪を担う」お方と対面させられるのです。この時、悪を行った者たちは正されるとモルトマンは言うのです。

犠牲者も加害者も、やがて復活させられてキリストの前に立たされることを知る時、そして両者ともが癒され、両者ともが復活の命に、神の愛の命の中に生かされることを知る時、私たちもまた、これまでと同じようではいられなくなります。

しかも、私たちキリスト者は、この世において、すでにこのキリストの復活の命にあずかって、生かされて生きているのです。私たち一人一人は、この驚くべき希望のもとに、キリストの弟子として生きるようにと招かれていることを覚えたいと思います。