「助けてと言えますか?」
聖書:ヨハネによる福音書14章8節~17節
イエス様は、「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」と語られた。イエス様はいったい何を言おうとしておられるのか?それは、「あなたは父なる神に願うことができる。願ってもよい。」ということではないか。別の言い方をすれば「あなたは助けてと言える。助けてと言ってもよい。」「わたしと父に迷惑をかけてもよい。」…ということではないか? 私たちの中には「人に迷惑をかけてはいけない」「人に迷惑をかけたくない」という、それこそ信念とも言うべきものが刻まれている。けれども、もう一方で私たちは「人は誰にも迷惑をかけずに生きることなどできない」ということも知っている。イエス様は人に世話をしてもらわなくては生きることができない無力な赤ん坊の姿でこの世に来られた。ある意味で自らも人の世話になり、当時の宗教指導者たちやローマ総督ポンテオ・ピラトにとっては、まさに迷惑な存在であったイエス様ご自身が、十字架の上で私たちのために命を捧げられた。これは、まさに人に迷惑をかけずには生きられない私たちを、父なる神様がこよなく愛してくださったということを意味しているのではないか?その事実を、福音書記者ヨハネは3章16節でこう表現した。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」
私たちは、父なる神、子なるイエス、聖霊に「助けて」と言ってもよいのだ。迷惑をかけてさえよいのだ。そうしないでは生きられない私たちなのだ。そのように温かく父・子・聖霊の三位一体の神の交わりの中に迎えられている私たちは、お互い同士、「助けて」と言ってもいい。「迷惑をかける」ことがあってもいい。そういう共同体・教会を建て上げるようにと招かれているのではないだろうか?